舟はどこへいった
フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスは晩年周囲にこう漏らしたといいます。
「うまく拵えた作品はこの世に無数に存在する。しかしそれらはただ音符が記されているに過ぎない。そこには内面の世界が欠けている。彼らは立派な造船所を建てた。だが船はどこだ?」
シベリウスが20世紀の作曲界に投げかけた(と思われる)この言葉は、どこか現代の演奏家たちにも当てはまるような気がします。「正確で破綻の欠片もないアンサンブル…。だがしかし何か物足りない…」という体験は、割とよくあることです。そんなときの私は、まさに「舟はどこだ!?」状態になるわけです。
アンソニー・コリンズが1950年代前半に英デッカに残したシベリウスの録音のうち、交響曲全7曲が3枚組セットで再発されました(→amazon.co.jp
)。この録音を聴いて感じるのは、コリンズのシベリウス解釈の「確かさ」です。どこが「確か」かというと、彼の音楽からはシベリウスの楽譜に込めた「感情の動き」がきちんと伝わってくるのです。ただ「フォルテ」と「ピアノ」と描き分けるだけの演奏とも、ひたすら「泣き」の入った感情的な演奏とも違う、「喜怒哀楽」の感情の流れがあります。その感情の流れがまた自然で、ピタっとはまっているのです。作曲家の喜び、落胆、そして孤独がしっかり音として表現されてるような、そんな演奏です。
彼の音楽の中には、舟の影がはっきりと、見て取れるのです。
(参考)
Michael Tucker. Northbound: ECM and 'The Idea of North'. Horizons Touched - The Music of ECM - . Granta Books. England. pp.29-34.
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