おかえりなさい。アンドレイ・ウラディーミロヴィチ。(mp3アリ)
例によってネットをうろうろしてたら、ロシアのピアニスト、アンドレイ・ガブリーロフ(51)の最新インタビュー(→Guardian)を見つけました。そういえば随分彼の名前を聞かなかったような気がします。少し懐かしい気持ちになって記事を読み始めたのですが、そこに書かれていたのはガブリーロフの波乱万丈の半生でした。
画家の父とピアニストの母親の間に生まれたアンドレイ・ウラディーミロヴィチ・ガブリーロフ(写真)が音楽界で一躍脚光を浴びたのは1974年、若干18歳で「チャイコフスキー国際コンクール」で優勝した時でした。同年にリヒテルと共にザルツブルグ音楽祭の舞台に立ち国際的キャリアを華々しくスタートさせた彼は、コンサート・ピアニストとして順風満帆のスタートを切ります。たちまち裕福になったガブリーロフは、あのショスタコーヴィチでさえ(当局の反対で)手に入れることが出来なかったベンツを購入し、乗り回していたといいます。
80年代前半はアンドロポプ政権下で国外での活動を制限されていたガブリーロフですが、ゴルバチョフによるペレストロイカ路線と共に西欧に活動拠点を移すと、再び世界を飛び回る多忙な毎日を送るようになります。当時EMIやDGからは彼の名前がクレジットされたCDが年数枚ペースでリリースされました。ヘンデルからプロコフィエフまでという広大なレパートリーを誇った彼は、よく「あなたには不可能な曲は無いのですね」と尋ねられたそうです。
そんなガブリーロフの演奏家としてのキャリアは1993年に暗転します。その契機となったのは「ドタキャン」でした。彼はベルギー女王の臨席の下行われる予定だったコンサートを突然キャンセルしたのです。「その日急に『ブリュッセルでコンサートをするのは止めよう』と閃いたのです。マネージャーには『何てばかなことを言ってるんだ。チケットはソールド・アウトだし、女王様もお見えになる』と言われましたが、そのとき私に何が起こったのか、自分自身も一言ではうまく言えません」とガブリーロフは当時の心境を振り返っています。
その後もウィーンのリサイタルの途中でステージから姿を消すという「問題行動」を起こした彼は、いわば音楽業界から「干された」状態となります。8年間もの音楽活動休止期間中、ガブリーロフは多くのものを失います。レコード契約、自宅、金。さらには妻と息子も彼の許を離れていきました。
そして当時のガブリーロフは、芸術的にも暗中模索の時期でした。「私は自分自身に満足できなかったのです」「確かに物質的に豊かにはなりました。でもこのやり方を続けてると、私が思い描いていた芸術家のイメージからどんどん遠のいてしまうような気がしたのです。私が目指していたのは、自由で、独創的で、理想を追求する芸術家です。それは『音楽産業』からは一歩引いた存在です」「音楽は産業にはなり得ないのです。音楽はトラクターを作るのとは訳が違うのです」。彼はコンサートから遠ざかってる間も、自問自答しつつ自らの音楽を追求していきますが、やがて疲弊し、演奏活動への復帰を諦めかけた時期もありました。
このような長い苦悶の日々のあと、彼は突如として「目が開かれるような」感覚を覚えたといいます。まさに芸術に開眼したわけです。音符の意味するもの、メッセージが判るようになったと感じた彼は、満を持して音楽界に復帰します。彼は現在、聴衆との絆、そして録音に収まりきれないほど音のパレットが豊かになったことを感じながらコンサート活動を行っているといいます。日本人のピアニストと再婚し、演奏活動を支援するパトロンも得た彼は、私生活でも落ち着きを取り戻しました。
そんなガブリーロフが、先月ルツェルンで開いたソロ・リサイタルでショパンの「夜想曲集」とプロコフィエフ「ピアノソナタ第8番」を取り上げました。プロコフィエフといえば、彼はこの名作を若い頃に録音しています。私もLPで聴いたことがありますが、第2楽章の夜想曲的な「しっとり感」と鮮やかなフィナーレの好対照ぶりがとても印象的でした。もっとも長年の芸術的思索を経て復活を遂げた彼が、ルツェルンの会場で当時と同じスタイルで演奏したとは到底思えません。そのことはコンサート前半のショパン演奏からも伺えます。実は彼がこの日演奏した「夜想曲集」(全7曲)のmp3ファイルがダウンロード可能(当然無料)なのですが、そのあまりの個性の強さにぶっ飛ぶ人もいるかもしれません。独創的なペダル使用、独創的なフレージング、そして自由自在なテンポの伸縮、全てにわたり他の誰かと違うショパン演奏は、ある意味ショッキングですらあります。皆様にはその辺りをご留意の上でダウンロードしていただきたいのですが、私はそんな彼のカムバックを諸手を挙げて歓迎します。そもそもロシアのピアニストは、常に自問自答しながら、自らの芸術を追求していくものであり、音楽性を日々進化されていくものです。ガブリーロフもここで立ち止まらずに、更に音楽を深化させていくことでしょう。その経過を温かく見守っていきたい。そう思っています。
(参考)
On An Overgrown Path. Not much of a career - but free MP3s. (December 21, 2006)
「ロシアピアニズム」 佐藤泰一著、ヤングトゥリープレス、pp.189-190