「ピアニストが見たピアニスト」を読む
青柳いずみこ氏の著作物は、読む度にピアニストとしての経験に裏打ちされた鋭い知見に感心させられるのですが、最新刊の「ピアニストが見たピアニスト」(→amazon.co.jp)も、彼女独自の視点から6人のピアニストたちの芸術の本質に迫った、まさに「読ませる」内容です。
青柳氏の「独自の視点」とは、演奏家の評伝ものにありがちな「音楽家」として、または「芸術家」としてピアニストを描くだけではなく、「アスリート」としてもピアノに対峙する巨人たちを見ている点です。ピアニストたちの身のこなし、打鍵のゼスチュアの微細な表現はまるでオリンピックやサッカーW杯の決定的瞬間を描写しようとする一流スポーツライターのそれです。それにしても旧ソ連の巨匠リヒテルのピアニズムを表現するのに、一体誰がスピードスケートの清水宏保の名前を持ち出すと想像したでしょうか。
しかし青柳氏のまなざしはそのような表層的なことだけではなく、もっとピアニストのフィジカルの「奥深く」も覗き見しています。椅子の位置の高低、鍵盤に触れるときの指の形といった「フォーム」の問題、またハードスケジュールに追われるピアニストが負傷した時にいかに体調を回復させるか、といったコンディショニングの問題など、これまであまり語られなかった部分に至るまでスポットを当てながら、生身のピアニストが最高のパフォーマンスを発揮するためにいかに行動するかが、リアルに描写されています。
もちろん青柳氏はピアニストのフィジカル面だけではなく、メンタル面にも文章の多くを割いています。そしてアーティストの心理面に対する周囲のサポートの重要性についても触れています。アルヘリッチ(同書では「アルゲリッチ」)の場合、彼女のメンタルな弱さのために周囲は翻弄されてしまうのですが、彼女の演奏家人生に危機が訪れると、支援者たちはいつも自己犠牲の精神で彼女のために尽力します。一方サンソン・フランソワや、彼とは別の演奏家(ネタバレを防ぐため名はあえて秘す)の場合、彼らの破天荒ぶりに周囲は狼狽するばかりで解決のきっかけすらつかめず、結局彼らの人生そのものを縮めてしまうこととなってしまったのです。
そんな多種多彩な視点からのアプローチにより、ピアニストたちの演奏芸術はより多面的に、そしてより具体的な生々しさで描写されていきます。特に私の目を引いたのはリヒテルについての一項です。彼女は1970年代前半までのリヒテルと、'70年代後半以降のリヒテルとは演奏様式が異なる、とハッキリ述べています。「ソフィア・リサイタル」(→amazon.co.jp)に代表される、それこそどこかにしっかり捕まっていないと吹き飛ばされてしまいそうな竜巻の如き若き日の猛烈さと、晩年の穏やかスタイルとの乖離については、外国メディアなどではよく見かける意見ですが、その原因を彼女は意外なところに見出します。70年代はリヒテルの肉体が徐々に衰えていき、そのためリサイタルではこれまでの暗譜から楽譜を眺めながら演奏するスタイルへの変更を余儀なくされた、その時期が彼の演奏様式が変化していった時期と重なるのでは、という知見はまさに目から鱗もので、注目に値します。
上記のような鋭い指摘が文中の随所に散りばめられた本書は、充実した内容で一読に値するものですが、唯一不満があるとすれば、著者が取り上げた6名は何れもすでに世評が確立し、「一流ピアニスト」として認められた面々であることです。すでにこんなに有名なのに、別に青柳氏が取り上げなくても、という思いがしなくもないのです。尤も「あとがき」を読む限り、彼女は真の「幻のピアニスト」についても今後紹介する意思を持っているようなので、続編に期待したいと思います。
(追記)青柳氏の公式サイトを覗いてみると、どうやら私の指摘はどうやら「ハズレ」だったようですね。でもこの書籍に対する、あくまで個人的なインプレションを残しておきたいと思ったので、敢えてこのまま置いておくことにしました。
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