マーラーが私に語りかけること
という、いかにもクラヲタ風味溢れるタイトルを掲げてみましたが(笑)、ノリントンの「巨人」(→一つ前のエントリ)と、その演奏に対する世間の反応を眺めながら色々と考えてみました。
といいますかネット上でノリントンのマーラーを褒めてるのって私以外あまり見かけないような気がするんですけど(苦笑)。この状況を「まぁノリントンの『第九』が初発盤で出たとき、あまりにオモロイので同好の士たちに聴かせて回ったら『何や!このケッタイな演奏は!』と総スカンを喰らったし、まあマーラーでのこの反応も頷けるかな」と最初は軽く考えていたのですが、ノリントンとは対照的に評判の高いベルティーニやテンシュテットとの相違に思いを巡らしてみると、単なる「好き/嫌い」を超えたものが見えてきました。
ベルティーニのマーラーは情感にあふれるものですが、全体的には充実した内声部に支えられた量感あるクラシックな響きが印象的で、それが堅実さと安定感を聴くものに与えます。音楽の進行も過激さを避けた慎重なもので、その結果ブルックナー的な音楽の建造物が作り上げられます。
テンシュテットはというと、各パートの音一つ一つに熱い意思と情熱が感じられ、それらの音の積み重ねがむせ返るような熱気を生みます。喜怒哀楽の様々な感情に満ちたテンシュテットのマーラーは、悩める英雄の物語そのもので、ワーグナー的な壮大な音楽劇です。
そしてノリントンですが、彼のマーラーは巨大建築物でも英雄伝でもありません。ノリントンの「巨人」はもっと個人的で、かつ日常的な悲劇です。その「日常性」はノリントンの音楽作りに負うところ大です、彼はマーラーの音楽のあちこちで挿入される田舎町のエピソード、例えば朝の田園風景、休日の余興、葬儀といった日常風景を鮮やかに生き生きと音化しています。そんな情景描写は民俗的な素朴さすら感じさせます。ノリントンには壮麗さが足りない、どこか矮小化している、という意見も確かにありますが、私にはパーソナルで日常的な雰囲気がどこか人なつこいというか、親しみやすく感じられます。
こうやって各人のマーラー演奏の特徴をつらつらと書いてみましたが、これってどれも「的はずれ」ではないような気がするんです。シンフォニックな構築美、ヒロイックな楽想、そして「子供の不思議な角笛」の世界を引き継いだ民俗的で寓話的な要素。そのどれもがマーラーの音楽を形成する一要素です。これらが複雑に絡み合い、層をなしているところがマーラーの個性であり、面白いところだと思います。彼の音楽の「多層性」の中からどの部分を抽出するか、というのが指揮者の腕の見せ所なのです。まあマーラーの「多層性」は多民族国家オーストリア=ハンガリー帝国だから生まれたのかも、と思索が行き着いたところでひとまず幕、としましょう。
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